レポート:了一ラボ

自分の為の備忘録

はじめまして

どうも、いどどの了一と言います。

 

正直書きたい事と言えば今のところは親知らずを抜いた話位なんですが、一先ず試し打ちにこの文章を書き連ねています。要は中身のない文章といった具合です。

日頃、他人の目に触れる場での作文と言えば、小さなコミュニティ内でのTwitterで日常を垂れ流すだけなので、ブログを通して何か得られる物があればいいなぁと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

というのが表向きの初心表明。こんな小奇麗な文なんて現実で繋がってる連中しかいないとこに書いときゃいいんだよ。

 

本題に入ろう。

 

私は人間が嫌いだ。まして表向きの人間関係の為に貴重な金を費やし、楽しくも無い事を「皆がやってるから……」と流されるまま参加したり、自分で考える事を放棄し、集団に属する事を常に最優先するなんて考えられない。そこに私のメリットはない。

 

 

しかし現実はそうはいかない。何故なら、人間は社会的動物だからだ。

 

 

突然だが、アリストテレスは著作中で人間の定義を『ポリス的動物である』と述べたのをご存じだろうか。その意味とは、

 

”人間というのは、自己の自然本性の完成をめざして努力しつつ、ポリス的共同体(つまり《善く生きること》を目指す人同士の共同体)をつくることで完成に至る、という(他の動物には見られない)独特の自然本性を有する動物である”(Wikipediaより)

 

だそうだ。イマイチ分かりにくいので色々調べてみたが、要約し現代に置換すると

 

”人は、良い事をするという同じ目的を持つ同士で集まり、大きな集団で良い事を成すのが目標という独自の本能を持つ動物”

 

となった。多分これが一番分かり易いです。ポリスは国家とかに訳せるけど、それだと別の意味合いも含んでしまうので一つの大きな集団って考えるのが望ましいかと。

本来であればアリストテレスの言うように、人間はこの本能に則って生活する事が一番本能に基づいた「適切」なのであろう。少なくとも紀元前300年の時代にこのオッサンはそう思ったわけだ。

 

時は令和元年、オッサンが本を書いてから約2230年。

関係ないけどこのPCは「令和」を一発で変換できず、元号を跨いだ事への実感を突然感じてしまった。

この長い年月の中でオッサンの言葉は段々と違う意味合いを帯びていき、やがて前後の文を鑑みない人間や社会背景を考えない人間、誰が生み出した言葉なのかも分かっていない人間によって様々な誤解が生まれた。

 

人間の定義を

社会生活を営む一個の社会的存在

”社会を形成する動物”

と浅いもので終わらせてしまい、挙句には

アリストテレスが”社会的動物”と人間を定義した」

と独自の解釈をするものまで現れた。

 

ちょっと考えれば社会を形成する生物なんてのは割とゴロゴロいる事に気付くだろうし、そもそも社会って言葉自体の持つ意味が多いし規模がでかいしで定義しきれていないのはここまで読んだ人なら分かるだろう。

 

ここまでの冗長的な説明や解説は知らなくても「社会的動物」という単語自体は知ってる人間は少なからずいるのではないだろうか。かくなる私もその一人だ。出会いは小学生の頃、何かの本で読んだのだ。今となっては本の内容もタイトルも思い出せないが一つの言葉として私の記憶に残っていた。

当時の私は気付く由もないが、今考えるとその本は確かにその言葉を間違って使っていた。いや、恐らくは

「その言葉の成り立ちと意味を正確に知る事無く使ってしまった」

というのが正しい表現だろう。そして覚えている限りの本の内容はこうだ。

 

 

アリストテレスはいいました。人間は社会的動物だから家族、友人、恋人などいろんな社会を作って協力して暮らしている唯一の動物です。だから、仲間たちを大事にして相手を思いやりましょう。

 

 

……皮肉だ。なんて長いスパンで人間を皮肉に捉えた言葉だろうか。

諸君はそう思わないか?

1人の哲学者のオッサンが考えに考え抜いて言った言葉が、何も考えない人間によって全く違う意味へと作り変えられた上に造語までできて、その発信源だと勝手に名義を使われているのだ。本当に伝えたい事はなりを潜め、都合のいい解釈が今も世間を飛び交う。当時のオッサンの気も知れないで。

決してアリストテレスは団結や協力の美徳を説きたかった訳じゃないと私は思った。というか、調べれば調べるほどそう感じた。なんとなく、アリストテレスには愛着と、わずかな憐憫の念が湧いた。

 

しかし、「人間は社会的動物である」というのもあながち間違ってないと同時に気付いたのだ。

何、「社会的動物」という言葉が表しているのではない。過去の偉人を蔑ろにした浅はかな解釈が表すのでもない。勿論、団結でも協力でもない。

 

 

社会的動物という言葉が生まれてしまった過程こそが「人間」という生物が成す「社会」を的確に表現していると、私は思う。そしてこの事実こそが人間に対するどデカい皮肉なのだと。しかも今の今まで続いている壮大なもんだ。

 

 

この社会こそ、この社会を作り出す人間こそ私が嫌いな「人間」である。

これを適切に伝える為だけにアリストテレスの話をしたのだ。ありがとなオッサン。

さぁ、私の本当の初心表明をしようではないか。

 

 

私は、私の嫌う「社会的動物」に負けない様に、自分を貫くための武器を作る。

 

 

これこそが真の目的だ。

私の人間関係は凄い、吃驚するほどに崩壊している。それはもうイザコザの起こらなかった関係なんてものは一つもない程だ。序でに自分自身も何度か崩壊している。

しかし私も馬鹿ではない。知恵はなくとも考える事は出来るのだ。幼少期からの経験や行動、周囲の人間の性格や心理を分析するうちに自分は決定的に協調性が欠如している事が分かった。

研究と共に私はやがて成長し、学び舎を巣立って大人社会へと身を投じ、成人をした。今ではそれすらも懐かしい。だが、どこへ行っても社会、いわばコミュニティというものはつきものだ。決定的に違うのは学生の時の様に簡単には修正できない事だろう。

10代の柔軟な発想(といってもガチガチの固定観念で物を話す輩は昔から一定数いるが)を失った大人の社会的駆け引きのえげつなさは一線を画す。私としても、いつまでも捨て身タックルだけで勝負はできないのだ。反動でやがて瀕死になってしまうだろう。

そんな私が死なないための防具や武器を作る為の場所が、ここという訳だ。

 

思考の整理をしたり、自分の考えをまとめておくための場所であり、対他人の対応や観察・研究・考察をするための場所。日記でありラボだ。なんかいい響きだな。

 

長くなったがこれが概要だ。私の文を最後まで読めるか否かが、このブログの一つの踏み絵となっている。書いていて読みにくい文章を作っている自覚はあるのだが、如何せん脳内をそのまま書き出すとこうなってしまうもので。申し訳ない。半分くらいで読むの止めた人は携帯小説読むのが向いてるんじゃない?人間好きなもん読むのが一番だよ。

 

因みにサブミッションとして、自分に嘘をつかないというものもある。

日常を生きる上で話を合わせたり、空気を読まないといけなかったりで自分に嘘をつく場面が多々ある。非っっっっっ常に不服である。

非常に、不服で、ある。やってられっかと何度頭の中で毒づいた事か。

ここは私の庭だ。私の思考を放牧するためにあるんだからどんな事も自分の好きに言わせろ、ま、そういうこと。正確なデータこそがより確実な成果へとつながると私は信じている。

 

全てが手探りだがなんだかこれも新鮮で楽しい。楽しく生きようぜ、自分。

 

其の為の備忘録だ。